Nursing&Education&Technology

看護とインストラクショナル・デザインを中心に、備忘録として残すブログです

Nursing & Education & Technology

看護師が医療・看護・教育工学について語ります。

スピノザ哲学と看護・教育

今回は久しぶりに哲学系の本を選んだ。

 

スピノザといえば「エチカ」だが、もちろん読んだことはない。

著者の國分先生は、雑誌「精神看護」のオープンダイアローグや、ケアと中動態の関係について論じた「中動態の世界」で看護界では知っている人も多いはずだ。

國分先生の著書はまだ読んだことがなかったこともあり、ちょっと読んでみるかとポチったのがこの本だ。

タイトル通りわかりやすく、かといって浅いわけではなく、考えさせられる内容だった。

印象に残った箇所を共有していきたい。

善悪の考え方

こんな一文があった。

事物は「それ自体で見られる限り」、善いとか悪いとかは言えない。つまり、それ自体として善いものとか、それ自体で悪いものは存在しない。

p.378

哲学というと「善い」とは何か、といったことを考える学問だというイメージがある。

しかしスピノザはちょっと違うアプローチをとる。
完全に善い・悪い、ということではないということだ。

スピノザはここで、組み合わせとしての善悪という考え方を提案します。例として取り上げられるのが音楽です。

p.385

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となったが、例があるとわかりやすい。
國分先生はここで音楽を取り上げている。
音楽そのものは善い・悪いとはいえない。
例えば、すごく勉強に集中したい時に、ヘビメタを爆音で聴くことは善いだろうか?
もちろん絶対的に悪いとはいえないが、多くの人にとってそれは勉強の効率を下げることになるだろう。

少なくとも僕はそうである。
ここでは勉強を例に出したが、スピノザにとっての善とは「活動力が高まる」ことを指すようだ。
納得である。

先ほどは悪い例を出したが、例えばこれから大事な試合を控えたり、受験勉強に気が乗らない時、元気が出るような音楽を聴いたことがある人も多いだろう。

これはまさに活動力が高まった結果である。
この善悪の考え方や何をもって善とするかの考え方は、とても看護的であるように感じた。

例えば良かれと思って患者さんに実施した「足浴」も、1人でゆっくり休みたいと患者さんが考えているタイミングでは「悪」である。
逆に夜眠れずに苦しんでいた場面で、足浴を実施してゆっくり休めれば、活動力は高まる(看護的に言えば、「生きる力が高まる」といったところだろうか)だろう。

つまり善いケアを実施するには、ただケアすれば良いわけではなく、患者の過ごす文脈や、治療状況といった組み合わせで考えることが大切である。
この考え方は看護にもマッチするなと感じた。

コナトゥスとエイドス

理解しきれていないけれども、大切な概念だと感じたのがコナトゥスとエイドス。

コナトゥスは、個体をいまある状態に維持しようとして働く力のことを指します。医学や生理学で言う恒常性(ホメオスタシス)の原理に非常に近いと言うことができます。

P.469

コナトゥスはスピノザ哲学に置いて有名な概念らしい。
僕なりの解釈であるが、この概念は存在の捉え方に関わってくる。
筆者曰く、スピノザ哲学は存在の本質をコナトゥスに見出していると。

コナトゥスはホメオスタシスに近い概念だということから、何かの刺激に対して何かしらの変化を起こし、自分の存在を維持しようと働く力である。
その力こそが、存在の本質であるという。

これに対してエイドスという考え方は、本質を形に見出す。
男の外見だから男、犬の形をしていれば犬。
そのまんまであるのだが、エイドス的な見方は表面的である。
本書ではわかりやすい例として、馬を挙げている。

競走馬と農耕馬、両者とも馬ではあるが、競走馬であれば周囲の速度に反応してスピードを高めようとする。農耕馬にはそのような反応をする力はおそらく備わっていないだろう。

エイドス的な見方だとどちらも同じ馬にしか見えない。

けれども、コナトゥス的な見方をすると、全く異なる存在として浮かび上がってくる。

この例はわかりやすいけれども、無意識のうちにエイドス的な見方をしてしまいがちなのが人間だ。

目の前に存在する形はわかりやすが故、そのメッセージは強い。
こちらが本質を捉えようとしないと、コナトゥスは認識できないだろう。
星の王子さまでいう「大切なものは目に見えない」と似ているのかもしれない。

またこの章で語られているスピノザの賢者観が素晴らしい。

賢者とは難しい顔して山にこもっている人のことではありません。賢者とは楽しみを知る人、いろいろな物事を楽しめる人のことです。

p.603

コナトゥスを見ようとすることで、はじめてわかる奥深さや面白みというのがきっとあるのだろう。

大人になると、「知ってる」で流してしまうことも多い。
でもそれは「本当に」知っているのだろうか。
そんなことを考えた。

一番響いたのがこの箇所。

おそらく優れた教育者や指導者というのは、生徒や選手のエイドスに基づいて内容を押し付けるのではなくて、生徒や選手自身に自分のコナトゥスのあり方を理解させるような教育や指導ができる人なのだと思います。

p.620

うーん、なるほど。
自分のコナトゥスのあり方を理解させるような教育とは・・・なんだろうか。

能動的である・・・とは??

受動的・能動的という言葉がある。

教育業界では、アクティブ・ラーニングがキーワードとなっていることもあり、割と耳にする言葉だ。

能動・受動のイメージとして、以下の図のようなイメージをもっていた人も多いのではないか。

少なくとも僕はそうであった。

画像1を拡大表示

しかしスピノザはこのように定義しなかったという。

私は自らの行為において、自分の力を表現している時に能動である。それとは逆に、私の行為が私ではなく、他人の力をより多く表現している時、私は受動である。

p.924

これを教育の現場に当てはめてみる。

例えば、アクティブラーニングにしたいとグループワークを授業で取り入れる。

一見すると、行為のレベルではアクティブに見えるかもしれない。

でも実は、何をすれば良いのかよくわかっておらず、教員が見てるからそれっぽくワークをする。

ちょっとわかりにくいかもしれないが、これはスピノザのいう能動的ではない。

教員の力が表現されてしまっている。

極端な例かもしれないが、能動性を高めるには表面的でなく、学習者のコナトゥスを考えることが必要なのかもしれない。

まとめ

自分の語りたいことをバーッと書いてしまった感はあるが・・・

普段の日常にも活かせる本だと思った。

國分先生も本書で述べられていたが、哲学は偉い学者が研究室に閉じこもり、難しいことをあれやこれやと考えるのではない。

私たちが、日々過ごしていて感じたちょっとした引っ掛かりや違和感を、より深く考えていくために、哲学は役に立つ。

すぐに役立つ系の本は、ある意味すぐに役立たなくなる。

哲学はすぐに役立つわけではないし、ちょっと難しいところがあるのも事実だ。

かといって、遠ざけているのはすごくもったいない。

読めるところだけでも良いから、哲学にも慣れ親しんでいきたい。