医療職の人はよく耳にする「傾聴」という言葉。
この言葉が意味することは何か。そして何をもたらすのか。
しばしば考えさせられる。
そんな背景もあり、タイトルに惹かれたがこの本。
タイトルはシンプルでわかりやすいけど、内容はとても深い。
「聴くこと」自体は日常でもなされているだろう。
だからこそ受け身な印象が強いこの行動は、よく考えてみると主体的な行動なのだ。
〈聴く〉というのは、なにもしないで耳を傾けるという単純に受動的な行為ではない。それは語る側からすれば、ことばを受けとめてもらったという、確かな出来事である。
聴くことが、ことば(受けとめることが、他者の自己理解の場を拓くということであろう。
「聴く」ことの本質を適格に表現された文章だと感じた。
客観的には聴いてもらってる"だけ"にみえても、聴いてもらった側からすると、その内側で大きな変化が起きている。多くの人に経験があるのではないだろか。失恋したり、勉強に悩んだりしたとき、誰かに聴いてもらうと元気になる。なんだかスッキリする。引用の言葉を借りるとすれば、ことばを受けとめるということは、「自己理解の場を拓く」という"ケア"となっているのだ。
「考える」という営みに対する考察も興味深い。
本文中で小林秀雄さんのこんな文章が引用されている。
考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう。
物を直に、比喩的にいえば肌で感じとる。そんな体験から出発して、対象を自分のなかで分解したり、違う角度から見つめ直したり…そうやって解釈すること、それが考えるという作業の、哲学的な側面なのかもしれない。
考えることは、何も"物"だけではない。
他者の語りを聴くために、その場に自分が在るということそれ自体が、「考える」という営みに近い性質を孕んでいる。
他者に語りかけることだけでなく、他者からことばを差し向けられたときのその言葉の受けとりかたもまた紛れもない他者への語りかけのひとつとして、意味をもつからである。
語りの場に立つということは、それだけ他者に入り込み、一挙一動に神経を研ぎ澄ますことが求められるのだ。
そう考えると、「聴く」ってなんて能動的な営みなんだろうと感心せざるを得ない。
医療者がよく使う"寄り添う"という言葉。
寄り添うってなんなのだろうか。
なぜ寄り添うことが、時として求められるのだろうか。
苦しみを口にできないということ、表出できないということ。苦しみの語りは語りを求めるではなく、語りを待つひとの、受動性の前ではじめて、漏れるようにこぼれ落ちてくる。つぶやきとして、かろうじて。 ことばが〈注意〉をもって聴き取られることが必要なのではない。〈注意〉をもっているのですが、聴く耳があって、はじめてことばが生まれるのである。
寄り添う援助者がいて、はじめて患者さんは想いを表出してくれる。
〈注意〉…すなわち全意識を対象の内側に注力し、語りを受けとめること。
「聴く」ことの本質はここにあるのかもしれない。
ケアの本質について、「お笑い」を例に鋭い考察がなされている。
お笑いがひとを癒すのは、意味の外部とまではいかなくても、ナンセンスというかたちでぜんぜん別のコンテクストへと、苦しみ、悲しみのなかにある人の意識を連れ出すからであろう。
他人へのケアのいとなみは、まさにこのように意味の外でおこなわれるものであるはずだ。ある効果を求めてなされるのだはなく、「なんのために?」という問いが失効するところで、ケアはなされる。
「○○だから」ではなく、「手を握ってあげたい」「そばにいてあげたい」と対象がとにかく気になり、巻き込まれるように、引き込まれるように関わる。
それ以上でもそれ以下でもなく。
結果として、それがケアになっている。
まず援助者の想いが先行し、それが引き金になりアクションが起こる。
そこに意味を求めたりはしない。
ケアはなにも人間だけの特権ではない。
老衰のゴリラにいよいよ死期が近づき、目も見えなくなったとき、ほかのゴリラがみなかれのまわりに集まってきて、一ヶ月ほどずっと寄り添うようにして生活していたというんです。
そして集団で行動するときも、眼の見えないその老ゴリラをいたわりながらも先頭に立てる。まるでプライドを護ってあげているように。
ゴリラのケア、奥が深い。
僕らのケアは何を護ろうとしているんだろうか?
ケアというのは、個人がじぶんの行為を正当化しやすい領域だということ、その意味でいちばん入り方が危うい領域だということである。だからみんなそっと入り込む。
看護師は患者さんの日常に、深く入り込むことを生業としている。
だからこそ、そこには慎重さが求められる。
とても考えさせられる本でした。