2019年になり早くも4日が経った。
昨年から現象学を独学でコツコツと学んでいる。
現象学を学んで感じたこと、それは…
なんだかよくわからん
全てがわからないというわけではない。
2%くらいは理解できているだろう。
ただ独特の言い回しが多く、その言葉の意味と自分がイメージしている意味がかけ離れているように感じている。
そんなアホな僕でも理解できるような入門書を探していた。
アマゾンでサーフィンした結果、発見した本がこちら。
東京大学の榊原先生が書かれた本だ。
榊原先生は哲学が専門だが、ひょんなことから医療の世界に足を踏み入れた方だ。
そんな医療側からすると異端な人物が、医療を別の切り口から捉えようとしてくれることで、新たなケアが生まれるんだろう。
ありがたいことだ。
前置きはこれくらいにして、本題のブックレビューに入ろう。
この本は
めっっっちゃわかりやすい
月並みな表現で申し訳ないが、本当にそんな感想をもった。
それでは印象に残った箇所を取り上げていきたい。
まずこの本には大きな目標がひとつある。
患者をトータルにみるということ
それを現象学的に明らかにしようというものだ。
ここでいう「トータル」とは何だろうか。
看護では、「身体的・精神的・社会的に患者を捉えよう」と習う。
要は患者を色々な面からみましょう、そういうことだろう。
やろうとしていることは、きっと同じなんだ。
でも現象学というアプローチをとることで、患者の存在を根源的な領域から捉えることができる。
きっとその感覚を、我々医療者に理解してほしくて筆者は書いているのだと思う。
現象学とはどのような学問か
第2章のタイトルである。
全体を網羅したいところだが、この記事では第2章に特化して書いていきたい。
まずはじめに出てくるのがこの人、フッサールさんだ。
現象学を学ぶ上で、この人は絶対に避けては通れない。
「現象学」という哲学を創始したフッサールは、物事や人々が意味を帯びて意識に現われ経験されることを「現象」と呼び、この意味現象・意味経験がどのように成り立っているのかについて、意味現象のいわば手前で、普段はそれと自覚されることなくつねに働いている「意識の志向性」の機能にまで遡って明らかにしようとした。
筆者はフッサール哲学をこのように紹介している。
ここでわかりにくいのが、「意識の志向性」という用語だ。
志向という言葉から何かに向かうイメージを連想させるが、なんだかよくわからない用語だ。
本書ではこんな風に説明されている。
フッサールのいう「意識の志向性」とは、意識に現われる何かを何かとして捉える意識の働きである。一つ目の「何か」が意識に与えられる「与件」であり、二つ目の「何か」が意識の志向性によって捉えられる「意味」である。
文字だけ追うと難しく聞こえるが、この絵を踏まえるとよくわかる。
この絵はフッサールさんがよく用いるらしい(詳細は割愛する)。
これは右目を閉じて、左目だけで見た部屋の風景である。
この部屋の風景を客観的に捉えたら、「男の人が寝転んで、左側に本が詰まった本棚があり、奥には窓がある」という表現である。
間違ってはいないだろう。
しかし立ち止まって考えてみよう、本棚に注目してほしい。
ここで実際に見えているのは「本の背表紙」であり、「背表紙が入った四角い物」である。
場合によっては、本ではなく書類にも見える。
要は、我々は「本の背表紙」から「本」を連想して、「本が詰まった本棚がある」という意味をもった現象として捉えているということだ。
先ほどの解説と照らし合わせると、赤文字が「与件」で青文字が「意味」ということになる。
このことから、「意識の志向性」とは意味をもった現象として捉えるまでの、意識の働きを指す。
なんだか少しわかってきた。
次は「間主観性」という用語だ。
これもなんだかよくわからない言葉だ。
先ほどの絵を見て、大体の人は「背表紙が入った四角い物」を本棚と認識するだろう。
つまり、他の人々も当然本棚と認識しているだろうと考えている。このような意識を「間主観性」つまり主観(自分)と他者の間にある意識を指す。
「自分と他者は同じ世界で繋がっている」というイメージだ。
間主観性があるので、先ほどの絵を見て「イノシシがいる」とは誰も思わないだろう。
しかし先ほど「場合によっては書類にも見える」と書いた。
つまり見る人によっては、違って見えることもあるということだ。
この違いは、見ている対象(つまり絵)は同じなのだから、この違いは「意識の志向性が異なることによる」と現象学では考えるのだ。
フッサールは、経験の積み重ねやそれに伴う知識の更新によって、意識の志向性の働き方が変化し、意味現象・意味経験の成り立ちが変わることを、「発生」という用語で表現しようとした。
つまり現象がどのような意味をもって現われるかは、その人の経験や意識によって変わってくるのだ。
「習慣が人をつくる」という名言がある。
現象学的にいえば、「習慣が現象をつくる」ともいえるかもしれない。
例えば、ある病院の循環器病棟で働いているA看護師がいるとする。
この病棟には変な人が多いとしよう(あくまで例え話です)。
するとA看護師は「循環器疾患=変な人が多い」と反射的に考えてしまう(意識の志向性)ようになる。
この話のオチはどこにいくのか。
現代は自然科学(サイエンス)が発達し、エビデンスベースな医療が推奨されている。
フッサールさんは、「過度に発達した自然科学的な見方が、我々が本来みえていた世界を見えなくさせてしまうのではないか」ということを問題提起している。
つまりエビデンスベースな見方(意識の志向性)が習慣化し、患者が実際に経験していることを見えなくさせてしまっているのではないか?ということだ。
フッサールさんがここまで考えていたかはわからない。
でも現代の世界ではそれが起こっている。
おそるべし、フッサール。
長くなりそうなので、ここで一旦切ります。
難しくてよくわからないフッサール哲学ですが、わかってくると大変興味深く、現代にも通じるものだということがわかりました。