信念早々、少し恥ずかしいけれど、「愛」について書こうと思う。
なぜか。
・・・特に意味はない。
冬は色々と考えてしまうものだ。
率直に言うと、フロムの「愛するということ」を読んで愛について学んだという話。
こんな感じで軽く読み始めたものの、この本の内容を実践することは困難な道のりだ。
冒頭でフロムは読者にこう問い掛ける。
自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向くよう、全力をあげて努力しないかぎり、人を愛そうとしてもかならず失敗する。満足のゆくような愛を得るには、隣人を愛することができなければならないし、真の謙虚さ、勇気、信念、規律をそなえていなければならない。
実に厳しい。
それでも、愛する努力は放棄してはならないし、努力する価値のあることだと感じた。
アラサーとなり、色々とバカなこともしてきた。
けれどもやっぱり思う。
「誠実さ」に勝るものはないと。
一時的な欲求に突き動かされるのではなくて、本当の気持ちに向き合うことがどれほど大切なことなのかが、最近ようやくわかってきた。
少し話が変わる。
男なら誰しも、モテたいと思ったことがあるだろう。
フロムはこんなことを言っている。
セックスは孤立の不安から逃れるための絶望的な試みであり、結局は孤立感を深めてしまうことになる。
なぜなら、愛のないセックスは、男と女のあいだに横たわる暗い川に、ほんのつかのましか橋をかけられないからである。
僕は決してモテるタイプではない。
断じて、ない。
けれども、なんとなく感覚としてはわかる。
「繋がっていない」という事実が、自分を突き抜けるような感覚。
モテる必要はない。
大切なことは、どれだけ深く繋がれるかだ。
自分が人生を振り返った時、残っているものはそういった繋がりのような気がする。
起業家やスポーツ選手は、自分の目標に向かって突き進んでいるだろう。
日夜、目標を達成するために努力されていることだろう。
そんな人達でさえ、フロムは「受動的」と言う。
情熱の奴隷になっており、彼の活動は、能動的に見えて実は「受動的」である。自分の意思ではなく、駆り立てられているのだから。
いっぽう、静かに椅子に座って自分自身に耳を傾け、世界との一体感を味わうこと以外なんの目的ももたずに、ひたすら物思いにふけっている人は、外見的には何もしていないので「受動的」と言われる。だが実際は、この精神を集中した瞑想の姿勢は、もっとも高度な活動である。内面的な自由と独立がなければ実現できない、魂の活動である
大切なことは、「自分の魂が集中しているか」である。
目標に向かって頑張ることは大切だ。
だからこそ、人生は充実するし面白い
しかし、時には自分との”対話”をしよう。
そして考えよう、自分自身のことを。