久しぶりに小説を読んだ。
随分と以前に書かれた児童文学で、2005年に新訳が出た模様。
たまたま某YouTuberが勧めており、久しぶりに小説を読みたくなったので手に取った。
あらすじ
とある国の貧しい街に、モモという不思議な少女が迷い込んだ。
モモは街にある劇場の一角に住み始め、街の住民たちが貧しいながらも、食べ物や住処に困らないよう支えてあげていた。
モモは一つ特技があり、なぜだかモモの前だと、誰もがよく語り、時に気持ちが穏やかになり、時にアイディアを閃いたりする。
いつしか街には「じゃあモモに話を聴いてもらいな!」という合言葉?が聞かれるようになった。
そんなモモと友達になったのが、掃除屋のぺっポという老人と、観光案内のジジという若者であった。
ぺっポは誰よりも時間をかけて考えて話し、自分の仕事である「掃除」に丁寧に取り組み、誇りをもっていた。
ジジは口が達者で、想像力豊かに物語を語るのが好きで、将来の野望もある、そんな若者であった。
2人ともちょっと変わり者であったが、モモのことが大好きな点は共通していた。
そんな街に、「灰色の男たち」が現れる。
彼らは人の時間を奪って生きる者であり、街の住民たちに時間を節約するよう策を講じた。
すると人々は時間を節約しようと、いかに効率的に生活するかばかり考え始めた。
しかし時間は灰色の男たちに奪われており、心のゆとりを失くし、イライラしセッかりになっていく。
そんな話だった。
物語がどのような結末を迎えるのかは、ぜひ本書をお読みください。
時間とは何か?
かなり拙いあらすじであったが、この本に通底するテーマは「時間とは何か?」である。
児童文学ではあるが、扱うテーマは深淵で哲学的である。
当たり前ではあるが、時間は目に見えない。
だから日常でそれを意識することはあまりない。
モモが暮らした街の住民たちが、灰色の男たちに時間をジャックされたのはそのためだろう。
と偉そうに書いているが、この街の住民は、現代を生きる私たちを投影しているようにも見える。
物質的に豊かとなり、情報技術の発達により情報量が飛躍的に増え、さらにはあらゆる物が自動化するようになり、現代社会の発展は目まぐるしい。
でもなぜだか、私たちは忙しくなり、何かを想像したり、誰かとじっくり語り合ったり、時に遊んだり、そんな時間が持てなくなっている。
SNSは現代の時間泥棒?
この本は時間泥棒である「灰色の男たち」の存在が、物語に大きなテーマを投げかけている。
読み終わってまず感じたのが、SNSが現代の時間泥棒とも言えるのではないか、ということだ。
僕自身、SNSのおかげで学んだことがあり、繋がれた人もたくさんいて、有益なこともたくさんあった。
でも同時に、SNSは広告で成り立っている側面があり、スキあらば自分たちに何かを買わせよう、時間を使わせようとデザインされている。
そして恐ろしいことに、無意識のうちにそのデザイン通りに、自分たちの生活をコントロールされている、と見方もできる。
以前なら友人と語りながら食べていた昼食は、SNSを眺めながら食べ物を胃に流し込んでる。。なんてことがある人もたくさんいるんじゃないだろうか。
人々に気づかれることなく時間を奪う。
世界中の天才達が作ったテクノロジーは、まさに灰色の男たちと重なるところがある。
自分の時間を生きる
本書の中で、印象に残った言葉がある。
時計というのはね、人間ひとりひとりの胸のなかにあるものを、きわめて不完全ながらもまねて象ったものなのだ。光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。ちょうど虹の七色が目にみえないもおなじで、鳥の声が耳の聞こえない人にはないもおなじようにね。でもかなしいことに、心臓はちゃんと生きて鼓動しているのに、何も感じとれないここを心をもった人がいるのだ。
忙しいという漢字は、心を亡くすと書く。
この物語を読んだ後だと、この意味がこれまで以上に響いてくる。
では、どうすれば生きた時間を過ごせるのか。
生きた時間は、自分と向き合ったり、家族や友人とじっくり語り合ったり、天気の良い日に散歩したり、美味しいものをちゃんと味わったり、何かを全力で学んだり、そんな一瞬一瞬だったりする。
それは人によって違うだろう。
でも少なくとも、誰かに操作された時間が、人生を豊かにしてくれるとは思わない。
時間は目に見えないからこそ、その時間をどう過ごすか、自分の意思で決めていくことが大切だ。
たまに、こういった素晴らしい本に出会えるから読書はやめられない。