AI関連の本をいくつか読んだ。
AIはArtificial inteligenceの略で、人工知能と和訳されている。
新井氏は
人工知能と言うからには、人間の一般的な知能とまったく同じとまでは言わなくても、それと同等レベルの能力のある知能でなければなりません。
と述べている。
世間ではAIというワードが氾濫してるが、AIとAI技術を混同しているらしい。
AI技術というのは、機械学習やディープラーニングといったものが相当する。
なぜこの区別が大切なのか。
「シンギュラリティ」という言葉がある。
和訳すると技術的特異点。
これが何を指すのか。
本当の意味でのAIが、人間の知能を越える地点がシンギュラリティということ。
そんな日は本当に来るのか。
筆者は「そんな日は来ない」と断言している。
しかしホッとしたのも束の間。
AI技術は私たちの日常に確実に溶け込み、人間が担ってきた仕事を奪うだろう。
そして最悪のシナリオは、大恐慌に陥るだろう…と。
この筆者の話をそのまま鵜呑みにするわけではないが、読んでいると納得させられる。
筆者は人間の生き残る道について、このように述べている。
「何の仕事とはっきりと言えないけれども、人間らしい仕事」は、AIに代替されることなく、残っていくのです。
重要なのは柔軟になることです。人間らしく、そして生き物らしく柔軟になる。そして、AIが得意な暗記や計算に逃げずに、意味を考えることです。生活の中で、不便に感じていることや困っていることを探すのです。
AIが真の意味で人工知能となるには、まだまだ数多くの課題があるそうだ。
そのひとつがフレーム問題。
限られた条件でしか、AIは機能することしかできず、想定外な事象には現在の技術では対応できないということだ。
改めて考えてみると、人間の営む日常って本当に複雑で様々な要素から成り立っている。
人間らしい仕事ってなんだろう。
それはやっぱり、著者が言うように「意味を考えること」なのか。
意味を考えるってなんだろう…とも思った。
看護の意味、教育の意味。
看護とか教育って、突き詰めていけば極めて人間味のある仕事だと考えている。
その人の生きてきたストーリーを共有することや、学習者の個性を尊重した関わり、引き込まれるように面白い授業…
これらは人間でないと、できないこと…だと信じたい。
AI技術によって、「看護とは?」「教育とは?」が改めて問われる時代なのかもしれない。